8月15日

今年も終戦記念日がやってきました。
珍しく静かな日でした。

毎年8月15日の新宿は街宣車がたくさん(それはまるでパレードのよう)列をなして道路を埋め尽くし、静かに終戦の日を噛み締めるという雰囲気ではありませんでした。
ところが今日は大騒ぎになった市ヶ谷、千鳥ヶ淵とは違って奇妙なほど静かで、風物詩ともなっていた街宣車を見ることはありませんでした。

5年越しの公約を首相が果たしたということは、やはり大きな出来事だったと思います。
前々から僕個人が思っていたのは、どうせ行くなら「8月15日」になぜしない、ということ。
変に日にちをずらすから却って問題(僕は問題とは思っていないが)が大きくこじれてしまっていたような気がしています。近隣諸国の国民感情、国益、いろんなフレーズが飛び交いますが、正直、僕はあまりそれらを気にはしていません。自分達がチベットでやらかしていることは黙殺している自称「大国」とか、自分の支持率をあげるためだけに毎度毎度「靖国」を使うお隣さんの話しは、何か「事の本質」を日本という国に見誤らせるだけのものなので、無視しています。もちろんミサイル打ちこんでくるお隣さんはさらに相手になりませんが・・・

お隣さんが騒ぐたびに実は彼らの望んでいる「歴史認識」なる問題が彼らの意図する逆の方向に進んでいるわけで、本当に「謝罪」を望むなら居丈高な姿勢はおすすめしません。

この60年あまり、日本という国は「戦争の責任」というものを真面目に国として考えていません。こんなこと書くとお叱りを受けそうですし、若造の僕がこんなことを書くのは僭越だとも思うのですが、一応、戦後の教育を受けているものとしてあえて書いてみます。

正直、こうしたことを真面目に考えるのに一番大事なのは、「お隣さんの顔色」でも「自虐的な反省」でも無いと思っています。多分、「教育」の中で子供にきちんと国としての考え、責任、反省点を教えることが一番大事だと思うのです。「平和」のありがたみを漠然と主張したって、正直、おぎゃぁと生まれた瞬間から「平和」な時代だった人間にありがたみをいくら言っても理解できないでしょう。僕もありがたいことは理解できますが、それ以上の何かが沸いてこない。やっぱりどこかで当たり前という気持ちがあるのでしょう。

それゆえに僕は今の教育で教えている戦争や平和についての話しに違和感を覚えています。実際、10年前の日本史の授業では殊更に「日本の非道」ばかりを主張する先生がまるで国家自体を「犯罪者」呼ばわりしましたし、その後の東京裁判なんて授業じゃ触れず仕舞い。「伊藤博文は暗殺されて当然!」とまで言いきった教師の言動に当時の僕は友人達とともに猛烈な反発心を持ったものです。
高校でも同じ。結局時間切れで肝心要のところは個人任せ。こっちはまだ先生にきちんとした考えがあったから、おかしな話にはならなかったけど、こんな状況で本当に『戦争責任』なんて教育しています、なんて言えるのか?僕ははなはだ疑問です。

結局、国はまともに戦争責任についての議論を全て「東京裁判」に丸投げしてしまい、それを鵜呑みにした日教組の皆様方はいたずらに「自虐」を子供に刷り込んだ。これが事実なんでしょう。その中の一部が自分達で真実は何かを考えている、ってのが事実。
本当に真面目に戦争責任を考えるなら「東京裁判」の矛盾というか存在自体を問題にすべきだし、その欺瞞に満ちた裁判で「A級」と認定された人達の本当の責任を国はというか国民は考えるべきだと思う。それは今するべきだろう。残念だけど、60年この国はそれを置き去りにしてきたんだし、戦争を知っている人はこれからどんどん亡くなっていく。次の首相にはそれをしてほしい、そこで初めて「靖国神社」がなんなのか考えるべきだろう。
少なくとも安っぽい「国益」なんて言葉で問題をすりかえて欲しくは無い。
そのときは冷静に当時の状況を分析して「責任」を追求して欲しい。なんで戦争になったのか?ミスだって不祥事だって状況調査はするでしょう。それも無しにただ「戦犯」だの「軍国主義」だのって話は、単に騒ぎたい奴が自己満足に陥っているだけだと思う。

ここまで書いて再び「平和」のありがたみを感じたい。

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